秀わぴ小説(Tksさん) - 2/2

研修棟を出ると小雨が降っていた。
まぁ、これくらいなら傘を差すほどでもないな。
空を見上げれば、雲の切れ目から晴れ間も見え始めている。

開きかけた傘を閉じ、秀一は職員専用の通用門へと向かった。
そこにいる顔見知りのガードマンに軽く会釈をし門を出た途端、一気に疲れが押し寄せる。
当直明けにも拘らず、図書室で文献を読み漁っていたせいだろう。
それにしても……。
いつからか静かな場所でも集中して勉強ができるようになった自分に、ふと昔を思い出し笑みを零す。

今年の春
無事医師国家試験に合格し、晴れて初期研修医として大学病院に勤めることとなった秀一。
そこから歩いて十分程のアパートに、トリマーとして働くわぴこと一緒に暮らしている。
ここを借りて正解だった。
忙しい生活の中で通勤時間が短くて済むのは本当に有難いことだ、と秀一はつくづく実感していた。

何せ研修医の朝は早い。
カルテチェックに始まり、一連のカンファレンスの後チームで回診を行う。
午後からは外来診察や処置をしたり、定期的に行われる講習会に参加するなどめまぐるしいながらも秀一は充実した毎日を過ごしていた。

それにしても

「先生か……まだちょっと照れくさいな」

そう呼ばれるようになってから、早三ヶ月が過ぎようとしていた。
患者から見れば医者のひとりであるとは言え、研修医はすべての医療行為を単独で行うことはできない。故に指導医のサポートが必至でまだまだ一人前には程遠い。

もっと患者さんに信頼されるよう頑張らないと!

川沿いの道を歩きながら、ひとり決意を新たにする一方で

わぴこも今日は早番だったはず。

愛しいその顔を思い浮かべ、腕時計に視線を落とす。

「もう六時半か……そろそろ帰ってきてる頃かな」

彼女が待っていてくれると思うと、自然と足取りも軽くなる。
三つ目の角を曲がれば、今ではすっかり住み慣れたアパートが見えてきた。
落ち着いたベージュ色の壁、二階の一番端に秀一達の部屋がある。

ポストの中を確認してから外階段を上り、廊下の奥へと進む。
一呼吸おいて秀一はドアノブに手をかけた。
やはり先に帰ってきているのだろう、鍵はかかっていなかった。

「わぴこ、ただいま」

ドアを開け、玄関の壁に傘を立てかけると秀一は部屋の奥に向かって声をかけた。
しかし、どういうわけか返事がない。

あれ? まだ帰ってきていないのかな。でも鍵は開いてたし……。

不思議に思いながら靴を脱いでいると

「おかえり秀ちゃん!」

慌ただしく洗面室の扉が開きTシャツと短パンに身を包んだわぴこが笑顔で出迎えてくれた。
風呂から上がったばかりなのか、しっとりと濡れた長い髪から雫が落ちる。

「ただいま。珍しいね、こんな時間にお風呂?」
「えへへ、帰る途中で雨に濡れちゃったから」

その際一時本格的な土砂降りだったらしく、傘も意味を成さなかったみたいだ。

「帰ってきて速攻お風呂の準備しちゃった」
「そっか。大変だったね……」

わぴこの勤め先は、隣町にあってここからは少し距離がある。
彼女が自身のことを想って見つけてくれたこのアパート。

でもわぴこからすると、不便さは否めないよな。

秀一が心の中で申し訳なく感じていると
「でもね。わぴこ雨の日嫌いじゃないよ」
彼女がさらりとそんなことを口にする。
「どうして?」
「雨が上がって、空がきれいな青空になって、水たまりに映っている景色を見るのが好きなんだ」

なんだか知らない世界を覗いているみたいで、すごくワクワクする!

そう言ってわぴこは目を輝かせた。

ああ、なるほど……。

彼女らしい答えに秀一も顔を綻ばせる。

「それに……」
「それに?」

もったいぶるように少し間を置いた後

「雨の日にデートしたら、秀ちゃんと相合傘できるでしょ」

と嬉しそうに小首をかしげるわぴこ。
あまりの可愛らしさに、ここが玄関だということも忘れて抱きしめたくなってしまう。
でもその前に
「ほ、ほら、早くタオルでふかないと。風邪引いちゃうよ」
秀一はなんとか理性を取り戻すと、わぴこの首にかかったタオルを指さした。

「そうだった! ありがと、秀ちゃん」

ニッコリ笑って腕や肩にタオルを押し当てた後、わぴこは首筋を拭こうと髪の毛をかき上げる。
その姿がやけに艶っぽくて思わず目が釘付けになってしまった。

「どしたの、秀ちゃん?」

さすがに視線気づいたわぴこが不思議そうに秀一を見つめる。

「い、いや……なんでもないよ」

髪の毛が濡れているせいか、ひときわ甘い香りが鼻腔をくすぐる。
見慣れたはずの光景なのに、やたらと意識してしまうのはそのせいかもしれない。
壊れたかのように動く心臓をなんとか落ち着かせると、秀一は洗面室へと向かった。

うちのシャンプーこんなにいい匂いだったかな……。

微かな残香に、また身体の奥が熱くなる。

幼馴染の関係から、恋人同士になった二人。
昔から彼女のことはなんでも知っていると思っていたのに。
一緒に暮らし始めてから、まだ知らないその一面を垣間見る度ドキドキさせられっぱなしで。
鏡に映る自分の顔が酔ったように赤い。

それでも冷静さを装い、ドライヤーを手に取ると秀一はリビングへと向かった。

「おいでわぴこ。髪、乾かしてあげる」

二人掛けの小さなソファに腰を下ろした秀一は、彼女に向かい軽く手招きをする。
そして自分の足の間にしゃがみこんだわぴこの髪をそっと手に取った。

高校生になってから髪を伸ばし始めたわぴこ。
秀一は慣れた手つきで胸のあたりまである髪を撫でるようにかき分け、根元から乾かしていく。

優しく、そっと。

「大丈夫? 熱くない?」
「うんっ! 大丈夫だよ」

明るい返事に秀一はドライヤーを持つ手を入れ替え、今度は反対側に風を当てる。

「秀ちゃんの手大きくて、気持ちいいね」

撫でられる感触が心地いいのか、わぴこはどこかうっとりとした口調でそう言った。

「そう……」

何気ない一言が嬉しくて、口元が自然と緩む。

こういうことをするのは今日が初めてではない。
ある時繁盛期で疲れていたのか、濡れたままで眠りにつこうとする彼女を見かねた秀一が声をかけて以来、時々こうやってドライヤーをかけるようになったのだ。

回数を重ねる毎に腕が上がってきているようで

「秀ちゃんもわぴこと同じトリマーさんになれるね」

なんて、冗談めかして言われたこともあったっけ。

それにしても僕がこんなことをしているのを、葵が知ったらどんな顔をするだろうか。

『そーいうの、世間じゃバカップルって言うんじゃねーの?』

とかなんとか。
親友の何とも言えない表情を想像しながら人知れず苦笑いを零す一方で

そういえば髪を伸ばした理由、まだ教えてもらってなかった。

ふと心に浮かんだ過去の情景。

昔、付き合う前に一度だけ聞いた事があったけど

「えへへ。ないしょ」

笑ってはぐらかされて以来、その話題には触れていなかったから。

そんなことを考えながら、秀一は大分乾いてきたのを見計らい風量を弱めた。

昔と比べると随分長くなったよな。

指の間を流れていく髪がとても綺麗で、秀一はその艶やかさに目を細める。

愛おしい、この時間が。

忙しい日々の中、こうして穏やかに彼女と一緒に過ごす時間が、自分にとってはかけがえのないものとなっていた。

「もうちょっとだからね」

最後は冷風に切り替え、手櫛で整えるように乾かせば、
うん、我ながら仕上がりも完璧。
秀一はドライヤーのスイッチを切ると、わぴこの両肩に軽く手を置いた。

「さぁ、わぴこ終わったよ」
「ありがとう、秀ちゃん」
「どういたしまして」
「秀ちゃんに乾かしてもらうと、すっごくツヤツヤになるね。嬉しくなっちゃう」
「そう言ってもらえると僕も嬉しいよ」

髪を触りながら声を弾ませる彼女を見つめる秀一の目に、優しい色が灯る。

「わぴこがお世話しているワンちゃん達もこんな気持ちなのかな」
「ははっ、そうかもしれないね」

言いながら秀一は彼女の身体を抱き上げて自分の膝の上に乗せた。

後ろから回した手に、そっと柔らかな手が重なる。

「さてと。今日の夕食何にしようか?」

食事は今、作れる方が作るスタイル。
昨夜は当直で一緒に食べることが出来なかった分、腕を奮おうと考えていた矢先

「秀ちゃんの好きなハンバーグ用意してあるよ」

事もなげに言われて驚いた。

「えっ!? もう出来てるの?」

大きく頷いた後

「実はね、昨日秀ちゃんがいない間に下ごしらえしてたの。後は焼くだけだよ」

振り返ったわぴこはVサインをしてみせた。

「こないだちーちゃんに教えてもらったんだ」
「へぇ。千歳さんに?」
「うん! ちーちゃんね、葵ちゃんのためにお料理の教室に通ってるんだよ。今じゃ葵ちゃんも美味しいって言ってくれるって、ちーちゃん喜んでた」

まるで自分のことのように嬉しそうに話すわぴこ。

なるほど、ここ最近わぴこのレパートリーが増えてきたのは千歳さんのおかげだったのか。

「今度のお休み、ちーちゃんの家に行って一緒にお菓子作るの。もちろん甘いもの苦手な秀ちゃんも食べられるお菓子だよ。だからおみやげ楽しみにしててね」
「ああ、楽しみにしてるよ。って、そうだ! 言い忘れてたけど、一人で家にいる時は鍵をかけておいたほうがいいよ。さっきみたくお風呂場にいる時に、こっそり誰かが入ってきて鉢合わせなんてことになったら、それこそ大変だからね」
「はぁい。明日から気を付けるね」
「きっとだよ」
念を押すように繋いだ指にきゅっと力を込めると
「分かってるって。ホント心配性なんだから、秀ちゃんは」
また子供扱いされていると感じているのか、少し拗ねた声が返ってきた。

そりゃ、心配にもなるさ。だって……

わぴこは可愛い。
これからもっと、ずっときれいで可愛くなっていく。

街を一緒に歩けば、そんな彼女にはいつも熱い視線が注がれていて。
なのに、当の本人は無頓着というか全くそれに気づいていないみたいで、
正直なところ、彼氏としては気が気でない。

変な虫がつかないように常日頃目を光らせているなんて、思ってもいないのだろう。

秀一が小さく息を落としたと当時に、わぴこが突然体の向きを変えた。

今度は向かい合うように秀一の膝に跨る彼女。
顔がぐっと近くなり、頬の温度が一気に上昇する。

「でも、いつもわぴこのこと想っていてくれてありがとう」

    秀ちゃん大好き    

ふわりと笑ったわぴこは、チュッと秀一の額にキスをした。

まっすぐな瞳と、とびきりの笑顔にたまらない気持ちが込み上げる。
彼女の腰に腕を回し、秀一はその身体を引き寄せた。

唇にお返しのキス。

「もっと、いっぱいキスしよっか」
「今日の秀ちゃん、なんだか甘えんぼさんだね」
「そうさせてるのは、わぴこだよ」

そっと両頬に手を添えると、秀一は再び彼女に口づけた。

わたあめのように柔らかくて甘い唇に夢中になる。

抱き合えばこの上なく心が休まる香りに、時間が経つのも忘れてしまう。

しばらくすると

「秀ちゃん、そろそろご飯の準備してもいい?」

わぴこが名残惜しそうに口を開いた。

「そうだね。気が付かなくてごめん」

そう言いつつも、今は離れたくなくて。

「ねぇわぴこ」
「なぁに、秀ちゃん?」
「髪、どうして伸ばしたの?」

その問いに、「なんでそんなことを聞くの?」と言わんばかりの視線を向けられ秀一は思わず動揺してしまった。

「ほっ、ほら……高校生になるまではずっとショートヘアだったじゃない。だからどうしてかなって」
「あれ? 言ってなかったっけ?」

わぴこは昔のことなどすっかり忘れたかのように、きょとんと目を丸くした。

「知りたい?」
「うん。知りたい」

視線を合わせて、思わず笑みが零れる。

「それはね……」

腕の中で聞いたその答えに今日一番顔を赤くする秀一を見て、彼女が嬉しそうに微笑んだ。

END

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